死んだ目でダブルピース 2nd

引っ越してきました。

電子書籍化記念につき再掲/歪んだ性の物語─樋口毅宏「ルック・バック・イン・アンガー」

 樋口毅宏の小説は歪んでいる。ただ単に、ストーリーが娯楽小説のセオリーから外れている、というだけじゃない。キャラクター同士の関係、特に、恋愛関係とか親子関係が、ことごとくまともじゃないのだ。
 小説が歪んでるということは、作者の思考が歪んでるということだ。本人がいくら「僕は普通の人だと思います」なんて、ふざけたことを言ってたとしても。

 僕は2010年にブログで樋口さんのデビュー作「さらば雑司ヶ谷」を紹介したことがきっかけで樋口さんと知り合い、年に何度か会うようになった。……というか友達になった。同じ1971年の東京生まれで、観たり聴いたりしてきたものがかなり重なっていたから、めちゃくちゃ会話がスイングしたのだ。
雑司ヶ谷の続編は書きたくないんですよねー、どうせ面白くなることはわかってるから」
 などという憎たらしい発言に度肝を抜かれ、のちに発表された続編「雑司ヶ谷R.I.P.」が本当に傑作だったので、改めて畏敬の念を抱いたことも思い出す。


 ついでながら、その「雑司ヶ谷R.I.P.」の打ち上げになぜか僕も呼ばれて、前の奥様を紹介されたりもしたのだった。たぶん2011年2月、東日本大震災の直前のことで、そのとき元奥様は、ももいろクローバーというアイドルにハマっているという話をしたはずだ。僕がももクロのファンになったのは、その影響もあったのだ。


二十五の瞳

二十五の瞳

 その翌年、2012年の初夏、「二十五の瞳」を読んだ僕は樋口さんが奥さんと離婚したことを知って激怒し、直接話を聞くことにした。
 待ち合わせの場所にやって来た樋口さんは、歩きながらスマホに文字を入力し続けていた。そして申し訳なさそうに、
「すみませんー。アイデアが浮かんで来ちゃったんですよー。どうしようもないんです。ホントにすみませんー」
 と、頭を下げた。そして居酒屋まで移動する間も、居酒屋に到着してからも、樋口さんはしばらく小説の断片をスマホに書き込み続けた。
 スマホの入力が一区切りついてから、僕は本題に入ることにした。
「二十五の瞳」読んだけど、ホントに離婚したの? 愛してるけど離婚するって、意味わかんないよ。愛してるんなら、離婚しないでしょ。なんか、あそこに書いてない理由があるんじゃないの? よそに女ができたとか。
 約3時間にわたり、僕は質問し続けた。
 まだ離婚の傷も癒えていないのに、樋口さんは悲痛な表情で答えてくれた。いろいろ言葉を重ねてくれたけど、要するに「二十五の瞳」のあとがきに書いてある通りだということだった。
 そこには、明らかに論理の歪みがあった。傷をえぐるようなことをして申し訳ないと思ってるけど、僕は最後まで納得できなかった。
 それでも、小説の魔物に取り憑かれたような姿を見てしまった後では、
(そもそも普通の人じゃないんだから、普通の論理が当てはまるはずもない)
 と思うしかなかった。


 話している最中、樋口さん自身の「歪み」をいくつか発見した。
 樋口さんの両手の指の爪は異様に短い。完全なる深爪で、加藤鷹の指と同じだ。
 そのことに話が及ぶと、コアマガジン時代からの習慣だということだった。
 樋口さんは、ご自身が在籍していた「ニャン2倶楽部Z」編集部を、「セックス大学」と表現しており、
「僕は、日本で数少ない、セックス大学の卒業生ですから」
 と、胸を張った。
 どんな時も謙虚な樋口さんだけど、セックスの技術にかけては、絶大なる自信を持っていた。
 樋口さんとセックスの話をしていると、確実にSとM、支配と被支配の話にスライドしていく。それもよく考えたら異様な話だ。
 その日、樋口さんは、別れた奥さんが誰か別の男に抱かれることを想像すると耐えられない、ということも話していた。
「『日本のセックス』書いた小説家が、なんてぬるいこと言ってるんですか!」
 と、突っ込んだら、
「僕は、書いてる小説と違って、ものすごくノーマルな男なんですよ!」
 と、悲鳴を上げた。
 そんなことないよ、樋口さん。生き方も、思考も、じゅうぶん歪んでます。


 その歪んだセックス観やSM観は、その会話の半年後に発表された「ルック・バック・イン・アンガー」にたっぷりと反映されている。なぜならこの作品は、樋口さんのコアマガジン時代の思い出が山ほど詰め込まれているからだ。
「ニャン2倶楽部Z」や「BUBKA」といった、歪みまくった雑誌を生み出してたコアマガジンという出版社は、もともと白夜書房の兄弟会社として生まれ、独自のいびつな成長を遂げてきた。
 全4章のうちの3章まではそういった雑誌を作り上げた奇人編集者たち(樋口さんの当時の上司に当たる人たち)の一代記となっていて、最終章は樋口さん自身がモデルになっている。
 でも、モデルはモデルであって、本人そのものじゃない。
 歪みまくった4人の編集者のたくさんのエピソードには、まぎれもない事実と共にフィクションもたっぷりと入り混じっていて、結果的に、「樋口毅宏の四つの人格」が紹介されてるようにも読める。
 少なくとも、樋口さんは、何か共鳴するところがあって、自分以外の3人をチョイスしたんだろう。
 いずれの章も、歪んでて、過剰で、醜い。
 今までの樋口作品の中で、いちばんグロテスクだと思う。R18推奨。
 けれど、その中に、切実で痛々しいほどの美しさがあった。


 その後、樋口さんと僕との友人関係は、90年代サブカル好き男のホモソーシャルの悪いところを煮詰めたような関係から、徐々に落ち着いてきたように思う(めちゃくちゃ迷惑かけられたこともあったけど、それは樋口さんが掛けたハシゴに乗っかった僕も悪かったのだろう)。


 樋口さんが比較的まるくなったのは、本人は認めないだろうけど、2回目の結婚の影響が大きかったのだと思う。現在の奥様である記子さんの献身っぷりは見ていて涙が出そうになるが、樋口さん自身はそこまで感謝していないように見えるのが憎たらしい。そのままじゃいつかまた同じ轍を踏んじゃうよ。


 そして2020年7月、この作品が電子書籍化されたのをきっかけに再読した。
 行間のすべてに、あの時の樋口さんが全身にまとっていた狂気が宿っていて、これはスマホにダウンロードして常備しておかなければならない傑作だ、と改めて感じた。
 8年前、この本が単行本として発売された時に僕は、
【この歪んだ小説が直木賞を獲ってくれたら痛快なんだけどなあ。】
 と、書いた。
 その感想は今でも変わっていない。おすすめです。

※単行本発刊当時に書いたブログ記事を、加筆修正の上、再アップロードいたします。