死んだ目でダブルピース 2nd

引っ越してきました。

樋口毅宏「ルック・バック・イン・アンガー」について書きそびれたこと

 先日アップした樋口毅宏「ルック・バック・イン・アンガー」についての自分のブログ記事に関して、著者の人間性ばかりに言及し、肝心の内容についてほとんど書いていないことを指摘された。これはまずい。この小説の異常性について、きちんと世間に伝えておきたいので改めて感想を書き直すことにします。前回のブログ記事はなかったことにしてください!

 樋口毅宏は2009年のデビュー以来一貫してキャラクター設定・プロット・世界観、いずれも常識からかけ離れた「頭のおかしい小説」しか書いていない。そもそも著者自身がどうあがいても常識からかけ離れてしまう人物だから仕方ないとしか思えないが、そのおかげで数々の傑作が生み出されてきたのもまた事実である。
 このたび単行本発売から8年を経て電子書籍化された「ルック・バック・イン・アンガー」は、そんな樋口作品の中でも屈指の異常性を持つと同時に、最も私小説に近い──つまり著者の人間性が最も生々しく投影された作品である(巻末に収録された短編「四畳半のシェイクスピア」も同じ傾向の作品だ)。
 樋口毅宏は小説家としてデビューする前、コアマガジンというアダルト系出版社に勤務していた。本書はその出版社を舞台に書かれている。
 コアマガジンは、90年代後半に白夜書房の関連会社として設立された。白夜書房は、今でこそアダルト系のイメージを払拭した感があるが、元々はビニール本の出版社として創立され、サブカルの要素を含んだマニアックな出版方針で業界を席巻した過去を持つ。もはや伝説の域に達しているが「オタク」という言葉が生み出されたのは、同社が発行していた「漫画ブリッコ」だった。
 コアマガジンはその先鋭的な部分を受け継ぎ、過激な出版方針で注目を浴びた。「スーパー写真塾」「ニャン2倶楽部」「メガストア」「BURST」、そして、お宝雑誌だった頃の「BUBKA」(現在は正統派アイドル雑誌として白夜書房より刊行)など、当時は嫌悪感をおぼえる人がほとんどだったろうが、同時に、間違いなくそれを必要としていた人も存在していたのだ。
 本書の主人公は、コアマガジンをモデルとするアダルト系出版社に勤務する四人の男たちだ。
 主人公のひとり白鳥光太郎は、恋人を他人に抱かせることで興奮を得るという性的嗜好(=カンダウリズム)の持ち主だ。著者はこの性的嗜好をモチーフに「日本のセックス」という大傑作を発表しているが、本書でもその要素はたっぷりと用いられている。
「自分と同じ性癖を持つ男は多いはず。俺が読みたい本を作ろう。そうすれば必ず売れる」という信念の元、彼は投稿系のアダルト雑誌を立ち上げる。この目論見は功を奏し、雑誌の出版部数は順調に伸びてゆく。
 だが、どんなに売り上げが伸び、投稿者が増加しても、彼ほどカンダウリズムをこじらせている者は誰もいなかった。その描写が、白鳥の孤独をいっそう浮かび上がらせる。
 白鳥と、恋人で部下の中條怜子との関係は、とうていまともな男女関係とはいえない。著者はその異常な関係を両者の視点から詳細に描いてゆく。
 ストーリー展開は、あまりにも荒唐無稽すぎてリアリティを感じない、という方もいるかもしれない。なにしろこの出版社ではセックスと暴力が当たり前のように横行し、さらには自殺、放火、殺人などの血なまぐさい事件にまで発展するのだ。実際にこんな非常識な会社が存在していたら即通報されて終わりだが、物語の舞台としては、社会に居場所のない人々の受け皿として最適で、一部の読者はユートピア的な魅力を感じることだろう。
 また、白鳥光太郎に限らず、本書の登場人物は、基本的に社会の中で少数派であり、とてつもなく大きな孤独を抱えている。そして、その孤独から逃れようとして、かえって孤独を思い知り、自暴自棄による破滅の道を進んで行くことが多い。
 悪趣味なデフォルメと諧謔の背後には、モデルとなった人々へのあたたかいまなざしが注がれている。それは、著者が彼らと同じ孤独を抱えているからだろう。
 また、最終章では、明らかに著者の分身そのものであろう、貝原茂吉という人物の怒濤のような人生が語られる。祖父、父親の自殺に起因する「俺は自殺するのではないか」という懊悩は、「俺は自殺しなければならない」という思い込みに変化し、アダルト系出版社でのアルバイトを機に、自暴自棄にも似たセクハラとパワハラ中心の生活にのめり込んでゆく。
 彼は白鳥光太郎が立ち上げたマニア投稿誌の編集部員として、応募してきた女性たちを抱きまくった。
【射精するたび彼の脳裏には憎悪に満ちた文字が羅列した。
 征服、併合、強奪、報復、制裁、破壊──。
 いつだって彼は、手で摑めそうな怒りを抱えていた。】
 白鳥光太郎が愛情と称して部下の中條怜子の人生をもてあそんだのと同様に、貝原茂吉も部下の武田英子という女性にのめり込み、性と暴力で無惨に踏みにじる。その結果、茂吉は精神病院の閉鎖病棟で変態医師に目をつけられ、英子が味わった以上の地獄を味わうことになる。
 まったく先の読めないグロテスクでバイオレンスなストーリー展開は、リアリティがない、共感できないと感じている読者に、わけのわからない感動をもたらしてくれるはずだ。それは、誰もが心の襞に隠した孤独が共鳴しているからに違いない。

電子書籍化記念につき再掲/歪んだ性の物語─樋口毅宏「ルック・バック・イン・アンガー」

 樋口毅宏の小説は歪んでいる。ただ単に、ストーリーが娯楽小説のセオリーから外れている、というだけじゃない。キャラクター同士の関係、特に、恋愛関係とか親子関係が、ことごとくまともじゃないのだ。
 小説が歪んでるということは、作者の思考が歪んでるということだ。本人がいくら「僕は普通の人だと思います」なんて、ふざけたことを言ってたとしても。

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美意識の人。~燃え殻「ボクたちはみんな大人になれなかった」感想

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 燃え殻さんの小説「ボクたちはみんな大人になれなかった」を読んだ。2017年6月30日、新潮社刊。*1
 1990年代の東京が舞台の恋愛小説であり、青春小説でもある。エクレア工場からテレビ業界の裏方へと転身した主人公の人生は、どこを切り取っても異世界的だけれど、作者が描き出す人々の生きようは常に普遍的で、誰の心にも内容がすとんと落ちてくると思う。読みながら当時を思い出してヒリッとすると同時に救われた気持ちにもなる。そんな素敵な小説だった。
 cakesというサイトで連載していた時はちょっと感傷的で自己肯定的すぎるように感じた部分が、書籍化に際して絶妙に抑制され、エッセイでも回想録でもない「小説」として完成したように思う。また構成が大幅に変更され、回想シーンが重層的になったことで、深みが増したようにも感じる(……などと書くと偉そうだけど)。
 世の中にはあらゆる手練手管を使って精緻な描写で読者を作品世界に没入させるタイプの小説家がいて、本来小説家というのはそういうものであるべきかもしれないけれど、燃え殻さんは、そういうタイプではない。文章は饒舌すぎず、適度に想像の余地があって、「いついつこんなことがあってこんな風に感じたんだけど、誰か僕と同じように感じてくれる人がどこかにいてくれたら嬉しいです」くらいの謙虚さで、メロウに進んでゆく。本人いわく、もともと小説家を目指していたわけではないし、小説が好きで読んできたタイプでもない。けれどふだんのツイートでもわかるように、文章のひとつひとつがきれいなので、作品の中に自然に引き込まれてゆく。
 燃え殻さんは主観の人だ。ものすごく記憶力がいい人だけど、その記憶は主観によって現実そのものから離れ、印象派の絵のようにボンヤリしている。そのわりにディテールはやけに描き込んであったりもするから、その絵はひどくいびつで、だけど唯一無二のものになっている。……まぁ、これは燃え殻さんだけじゃなく、記憶というものはそういうものかもしれない。
 燃え殻さんの素晴らしいところは、その取捨選択能力だ。脳内にストックされた無数の絵の中から、燃え殻さんはとびきり美しいものを選び取る。その中には、文字通り誰が見ても「美しい」と言える絵もあれば、今までどんな芸術家も取りこぼしてきたたぐいの美しさもある。無意識で選び取っている絵も多そうだけど、けっこう意識的に、野心的に選び取っているのではないかと思う。
 謙虚な語り口の裏側には、これまで踏みつけられてきた燃え殻さんの自意識が横たわっているように感じる。明確なルサンチマンの形にすらならず、日々の暮らしの中で心の奥底に貯まっていった感情が。それを押さえ込んできたのは、バブル崩壊後、あからさまに弱肉強食になっていった世間の風潮でもあるだろうし、そんな中で必死に生き抜いてきた燃え殻さん自身でもあるのだろう。
 燃え殻さんは美意識の人でもある。あれほどツイッターのフォロワーがたくさんいて、多くの共感(=リツイート)を得ていながら、断固としてツイートを集めた本を出さないのも、その美意識のあらわれだ。
 ダサいと思われたら終わり。90年代はそういう時代でもあった。同時に「カッコつけることこそダサい」「ダサいことこそカッコいい」という感覚も当然のように存在していた。さらにその価値観が先鋭化して「カッコつけてると思われたら終わり」へと転じたりもした。フリッパーズ・ギターコーネリアス小沢健二に分かれ、ダウンタウンが天下を獲った頃から、その価値観は何周も回ってわけがわからなくなった。この小説の中にもそういう緊張感が随所に感じられる。
 あれから20年。みんなヘトヘトに疲れ切った中で、燃え殻さんは「みんな無理してなかった? 俺はメチャメチャ無理してたんだよね」と、作り笑顔で読者に近づいてきた。……でもそうやって人畜無害なふうを装っているけれど、燃え殻さんはかなり意識的に「これどうよ」「これもありでしょ」などと、自分の中で「ダサくないと感じるもの」を次々に提示しているように見える。――世間的にはダサいとされているものだけど俺はダサいと思わないんだよね、いや確かにダサいんだけど好きなんだからしょうがないじゃん、いやほんとは好きでも何でもなくてなりゆきでそうなっちゃったんだけどさ、などと、あらゆる角度から、けっこうな手数で攻撃してくる。そして狙いすましたように、本当に美しい出来事やまっすぐな感情を、抜群な舞台設定とセリフ回しに乗せて、きわめて印象的に提示してくる。
 ……冷静に考えてみると「カッコつけてないよ」って顔しつつ実は全力でカッコつけてる姿って、ものすごくダセえんじゃないか、という気もする。でもたぶん、そのダサいところが、トータルでものすごくカッコよく思えてくる。
「取捨選択」の結果、燃え殻さんが小説に反映させていない要素がある。たとえば、これまで堅実に社会人として働いてきた自分自身の姿だ。浮き沈みの激しいテレビ業界の片隅の出来事が自虐的・露悪的に描かれているけれど、真面目に生活している姿は公私含めて描かれない。それはたぶん書いても面白くないし、テーマにそぐわないという冷徹な判断からだろう。ほかにも、舞台はラブホテルだったり怪しげなパーティーだったりするけれど、セックスそのものはたくみに隠されているし、さらに言えば、読者が全員引いてしまうような本当にゲスな行動は描かれない。個人的な感覚だと、90年代に生きていた若者は、もっとがっついていて醜かったと思うけれど。……こんな風に、燃え殻さんが書かなかったものを分析していけば、彼の美意識の根底にある優しさやサービス精神が透けて見えてくるように思う。たぶん燃え殻さんは、主に自分のためではなく、読者を楽しませるためにこの作品を書いたのだろう。その姿勢は読者にとっては当然かもしれないけれど、初めて書く小説でそれができる人はごく稀だ。
 一冊で店じまいするのではなく、今後もぜひ小説を書き続けてほしい。燃え殻さんの小説によって救済されるであろう人は、(僕も含めて)たくさんいるだろうから。


追記
 2017年7月4日現在、Amazonでも紀伊國屋書店新宿店でも売り切れている凄い状況のようだ。すぐにでも読みたいという方は電子書籍もおすすめ。読み終わったあともスマートフォンの中にいつでもこの作品が存在している状況は、たぶんとても幸せなことだと思う。
ボクたちはみんな大人になれなかった | 燃え殻 | ノンフィクション | Kindleストア | Amazon


 なお、今回この文章を書くためにこのブログを立ち上げました。今後はこちらに書くつもりです。よろしくお願いします。

*1:なぜ「さん」付けかというと、知り合い、というか友達だからだ。